目標を見える化して実現させる専門家

優しさあふれるイラストを使って人や組織を成長させ、
夢の実現を手助けする「ビジョナリーイラストレーター」
あなたの持つ個性に寄り添いながら、夢実現までの道のりを一緒に歩みます。

夢やビジョンを言語化し、さらにイラストにまですれば、人は輝き始める
いつか忘れていた本来の自分が求める理想を思い出し、自信をもって成長できる

じぶんらしく生きてほしい
だれもが夢を胸に抱いて、幸せに生きてほしい
なかなか言えない思いや、自分で心の奥にしまっていた気持ちをめでてあげたい
じぶんに正直に、夢の実現に向けてだれもが活躍してほしい

自分の夢を否定されて悔しかった少年時代

花火師になって大空に自分の作品を描くこと、これが幼い頃からの私の夢だった。
だけど両親は「そんな夢なんか実現しない」と、「平凡でいろ」と言って、学校の先生になって欲しいようだった。
自分の夢や個性は不要だと言われ、悔しかった。

社会に出て、失った夢を取り戻すために独立

学校を卒業して入社したのは、古い体質の会社だった。そこでは自分の個性を出すと居心地が悪い場所。
周りに馴染むために仕方なく、自分の夢は後回しにした。
毎日働くだけ働いて時間だけが過ぎていく。
行政では、個性は価値がないと言われ、
ビジョンなんて必要ない、とも言われた。
我慢の限界。
自由に自分の裁量でやるんだ!
私は独立することにした!

飛び出して知った、 夢のない経営者の苦しみ

行政支援で760件の案件に関与した。
うまくいかない社長は夢の設定がうまくできてない。
そうこうするうちに、ビジョンを思い描くこともできなくなってしまう。
行政支援の限界だ。
ひとの感情は、正しさだけでは動かない。
想いを前に向けることの大切さを実感したが、そもそもどうして良いかわからなかった。

誕生のきっかけ

コンサルタント仲間と付き合うようになって気付いた。 彼らもまた、個性を発揮できずに悩んでいた。
そういうコンサルタントに共通して、ビジョンが不明確 だった。
自分でははっきりしているようでも、実はぼんやりしていて、明確にイメージができていない。
試しにビジョンをイラストで描いてみた。
思考がクリアになった、自分がやりたいことが明確になったと好評だった。
そして、本当にビジョンを実現する人が出た!
これは効果が大きい、と確信した。

ビジョンマップの効果

・こんな会社にコンサルに行きたい、と願う先生が、 2年後にはその会社の社外取締役になった!
・お客さんとこんな光景を観たい!と願った税理士。 そのお客さんの共感を得つつ、大型の案件受注になった!
・勉強会でトップを取りたいと願うコンサルタント、 イラスト化で見事、受注額トップ表彰受けた!

今後はこうしたい

夢は誰のものでも尊い。
ビジョンはひとのモティベーションを維持してくれるエンジンでもある。
私は、ひとの未来の夢をイラストで引き出し、 見える化することで光を照らしてあげたい。
ビジョンの実現に向かって、仕事も遊びも真剣にやるオトナが増えることで 世の中は確実によくなっていくはず。
だれもが夢を抱いて、ワクワクしながらビジョンを実現させていってほしい。
社長も部長も、社員もパートさんも。
だれもが夢を語り合える世の中になることを願っている。

恥ずかしい過去を公開します!

ハズカシイ過去です。(笑)
1970年、愛媛県西条市生まれ。現在も西条市に在住。
平成元年に愛媛県立西条高校を卒業し、上京立川美術学院で浪人したのちに武蔵野美大短期学部でデザインを学んだのちに大阪で就職。
デザインのプロダクションで働きました。大手広告代理店の仕事で鍛えられた当時の先輩はいまも広告業界で大活躍されています。
大阪時代に先輩上司Nさんから借りた沢木耕太郎の「深夜特急」に感銘を受け、すぐに会社を辞めて長野県で住み込みで働きました。
長野県では旅館の中居さんや八ヶ岳で農業をしてお金を貯めました。山奥ではお金を使う場所が無いので結果的にすぐに貯まりました。
その後はバックパッキングに目覚め…仕事はいろいろ放浪しながら…住む場所も変えて転々としました。
青春を追い求める若者の合い言葉は「豊かな青春、惨めな老後」!自虐的なギャグですね~笑

そのまま当然のように無職になり、最終的には愛媛県松前町にある月4000円の家賃の鍵のかからないバラックに住みました。

毎日小麦粉を練っては焼いて食べる生活でした。小麦粉は安くてお腹が大きくなるので重宝しました。

隣に住んでいた方はそんな私を「クレープ焼きの兄ちゃん」と呼んで、よく食事をごちそうしてくれました。(ありがとうございま~す!)

そのまましばらくは壊れかけた軽四の箱バンで寝泊まりしながらフラフラしてました。あの頃はまだガソリンが90円くらいでしたから助かりました。

この頃に警察署の刑事さんから職務質問を受けました。私はやつれたコートを着て海岸でガラスや貝殻を拾ってたんですが、

なにか特別な“モノ”を拾ってると思ったのだと思います。

「今日はなんの取引だ!」と三人の刑事さんに囲まれたのはちょっと怖かったです。

マンションからの飛び降り自殺もかんがえちゃいました。

ある冬にふと、松山市の石手川の近くにある10階建てマンションの屋上を目指しました。思い立ってしまったんですかね。

屋上へのドアは鍵がかかってましたから、仕方なく踊り場から手すりを乗り越えました。

手すりにぶら下がるところまでやったのですが、そこからどうしても手を離せませんでした。

そのときに下からビル風がブワッ!と吹いて、体が浮いたみたいになった気がしたときに「あぶねっ!!」って思ったんです。

ああ、まだ生きれるかも?そう思って、必死で踊り場に戻りました。

そんなダメダメ人生を歩んでいた私も、人のご縁に助けられて新居浜でアルバイトの仕事をいただきました。

松前から新居浜まで車で行って、公園の駐車場に車をとめて寝泊まりしました。

冬にあまりにも寒かったので、ごみステーションで拾った石油ストーブ(アラジン製!)を車内で焚いてウトウトしてしまいました。

ふと気がつくと手足に力がはいりません。あれ、死ぬのかな?、この死に方って意外と楽かも?、と思いましたが、

バイトの仕事が残っているのが気になって、動かない手を必死で動かして消火ボタンを押し、スライドドアを開けました。

今考えるとあれは危険でしたが、仕掛かりの仕事のために生きようとする自分に驚きました。責任って大事ですね~

やがてアルバイトから契約スタッフになり、仕事も安定してからは結婚もしました。

妻が子供を欲しがったのですがお金が無い私には無理だと思っていました。

あるとき、取引先のK所長さんがこんなことを言ってくれました。

「オマエにカネが無いのと子供を産んで育てることには何の関係もないんだぞ!」その言葉に背中を押されました。

口は悪い所長さんでしたが、面倒見のいい、人間味のある方でした。感謝です!

その後はアルバイト先の取引先企業さんに転職し、期間社員を経て正社員になりました。

やがて払えなかった保険料や年金もさかのぼって払い、なんとか人並みの生活がなんとか送れるようになりました。

正社員になった私の仕事は、営業担当者が持ち帰ったクライアントさんの案件をデザインすることでした。

いいデザインができあがった時は嬉しいですし、担当者からも好評であれば励みになりました。

もちろん社内の軋轢やパワーハラスメントのようなものもありますが、それでも「ああ、この仕事やっててよかったな」と思える瞬間もありましたから、

なんとかやっていけたんですね~。

しかし、やがてある程度仕事がこなせるようになると、仕事内容にたいしての疑問がふくれあがっていきました。

それは、「だれのためにデザインしているのか?」です。

デザイナーが営業マンに指示されるのは、「なんかええもん作っといて。」なんです。

「お客さんが何案か見たいいうてるから、適当に3案か4案つくっといて。」なんて指示がほとんどです。

で、しばらく音沙汰ないから「あれどうなりました?」って聞くと、「ああ、あれね、アカンかったわ。」で終わりです。

それも面倒くさそうに言うわけですよ。

「一生懸命に残業して作ったのに、それはないんじゃないですか?」と反論したんですが、「誰が仕事取ってきてやっとんじゃ!」で一蹴。

デザイン何案もつくらせといて、それはあんまりだ!と、当時の仲間と憤ることはしばしばでした。

営業車の窓からだらしなくタバコを挟んだ腕を出して、

「あのクソ客はヨォ、バカヤロウが!」なんて言ってる営業マンの姿を見ると、仕事を割り振られるのが情けなくなってきました。

“これじゃあダメだ。こんなやりかたじゃ誰の為にもならない!もっとお客さんの方を向いてデザインしなきゃ…”

そんな欲求がどんどん私の中で膨れていきました。

そして2005年、母が一時的に体調を崩したこともあって、会社を辞めて西条でデザイン業を始めました。

独立当初は意気揚々と看板を掲げました。

名前は何日も悩んだあげく、仕事はワクワク楽しく!!という希望と、アイデアが湧き出る様子を思い浮かべて“ワクタル”と決めました。

よ~し、バンバンやるぞ~!!と鼻息荒くしていたのですが、蓋をあけてみると、仕事が無いんです! エーッ! まったく無い!!

よく考えてみたら、コネクションもお金も情報も無い。おまけにノウハウも無い。あるのは机と携帯電話、おんぼろのiMac が一台だけ。

で、どうやって仕事をとるの?

当時、下の息子が生まれたばかりの私は、赤ん坊の泣き声を聞きながら、「これ、やってしまったかも…」と額にいや~な汗をかきました。

異業種交流会で知り合った経営者さんのところに売り込みに行ったらボロカスにコキ卸されました。(因みにこの経営者さんは現在消息不明だそうです)

仕方がないので、午前中は営業、午後はアルバイト、夜は勉強と育児という生活をしばらく続けました。

それでも仕事はまったく増えず、夜中に妻と子どもの寝顔を見て、“情けない父ちゃんでごめん…”とひっそり泣いてしまいました。

この頃にアルバイトでお世話になっていた自転車店での経験は、いまの私の重要な基礎になっています。

店内の陳列やライティング、そしてPOP書きをしこたまさせてもらいました。ある程度好き勝手させてくれたんですね~!

そこでは多くの発見がありました。POPを書いたら売れたり、販売位置を変えたり別のジャンルで提案したりすると 急に売れることがありました。

また、配達のときにひとことお客さんに声がけしたり、コンチワ~!って笑顔で接していたりしていると、お客さんが喜んでお金を払ってくれたりするんです。レジも打ちましたが、支払いのお客さんが来ることがわかっている時には店のBGMを変えたりすると、ノリノリで支払ってくれたりもしました。

ほかにもニュースレターを書いたりといろいろやりましたが、それを許してくれた店長さんには感謝です!

(ニュースレターのタイトル文字は、2013年のいまでも使ってくれています!ウレシイ~!)

ここで大きな発見をしたのですが、それは【視点の切り替え】です。

売り手目線を、買い手目線に切り替えてみると、いろんなことが見えることに気がつきました。

また、それまではデザイナーという裏方の存在だった私が、店員として売場に立ち、店員に“なりきる”ことで、

お客さんとの接し方次第でこんなにも喜んでもらえるのか!ということにも気がつきました。いまでいうマーケットインの原点みたいなものでしょうか。

デザインをマーケティングに照らし合わせて考える私のスタイルはこの頃にはじまっています。

そうこうしているうちにやっと、私に名刺のデザインを頼みたいという業者さんが現れました。

その方はずいぶん前にお世話になった印刷屋さんでした。はじめての仕事はタテ型名刺のデザインで、デザイン料は1,000円でした。

「先に払っとくわ」といって財布からシワの入った1,000円をくれましたが、業者さんが帰ってからその1,000円を手に握りしめて泣きました。

私の目からこぼれた涙が、1000円札にポタリポタリと落ちました。その音はいまでも私の耳に残っています。

涙のワケは、ありがたさと、そして…悔しさでした。

それからはすこしづつ仕事をいただけるようになりました。

お客さんがお客さんを紹介してくださったりして仕事も少しは増え、なんとかアルバイトをしなくてもいいようになりました。

反対に、お客さんの身になって考えていないテキトーな業者さんからの依頼は全てお断りしました。

そのぶん売上げは厳しくなりましたが、人をだますようなデザインはしたくない、という信条を守りたかったんですネ。

経営の経験の無い私でしたので、ずいぶん裏切られたり、いいように利用されたりもしました。

相手に悪気がなかったとしても、こちらが無知ですから、結果的にそうなっちゃうんですかね。

お金にならない仕事をする結果になったり、お金を払ってもらえないこともありました。

そんなときに、家に帰って子どもの無垢な寝顔を見ると、また情けなくて悔しくて辛くなりました。

(よのなかのおとーさん、経験あるでしょ?!)

その後もまーいろいろありまして(笑)次第にお客様の信頼をいただきつつ、なんとか現在に至っています。

「ワクタルさんと仕事をすると楽しいですね」と言っていただけるのは本当にうれしいですネ!!

こんな私をあたたかく見守ってくださったお客様には本当に感謝しています。お客さんに仕事をいただきながら育てられた、そんな感覚です。

未来をワクワク、楽しく。そして美しく。

その後は、お客さんの立場に立って必要なことを精一杯させていただいています。

わずかづつではありますが順調に売上げを伸ばすことができましたので、地域のこどもたちに絵本の読み聞かせをする余裕もできました。

(2013年に卒業しました。)

また、公共機関さんや金融機関さんと一緒に、コンサルティング業務に関わらせていただくようになりました。

こんなダメダメな過去の私を信頼してくださっていることに心から感謝しつつ、真剣にお手伝いをさせていただいております。

ワクタルはこれからも感性を豊かにして、仕事をワクワク楽しくしながらお客さまと一緒に歩んでいきます。

今後ともどうかワクタルをよろしくお願いいたします!

(*長文、読んでくださってありがとうございました! 改めて読み返すとハズカシイですね…汗)




目標を見える化して実現させる専門家

優しさあふれるイラストを使って人や組織を成長させ、
夢の実現を手助けする「ビジョナリーイラストレーター」
あなたの持つ個性に寄り添いながら、夢実現までの道のりを一緒に歩みます。

夢やビジョンを言語化し、さらにイラストにまですれば、人は輝き始める
いつか忘れていた本来の自分が求める理想を思い出し、自信をもって成長できる

じぶんらしく生きてほしい
だれもが夢を胸に抱いて、幸せに生きてほしい
なかなか言えない思いや、自分で心の奥にしまっていた気持ちをめでてあげたい
じぶんに正直に、夢の実現に向けてだれもが活躍してほしい

自分の夢を否定されて悔しかった少年時代

花火師になって大空に自分の作品を描くこと、これが幼い頃からの私の夢だった。
だけど両親は「そんな夢なんか実現しない」と、「平凡でいろ」と言って、学校の先生になって欲しいようだった。
自分の夢や個性は不要だと言われ、悔しかった。

社会に出て、失った夢を取り戻すために独立

学校を卒業して入社したのは、古い体質の会社だった。そこでは自分の個性を出すと居心地が悪い場所。
周りに馴染むために仕方なく、自分の夢は後回しにした。
毎日働くだけ働いて時間だけが過ぎていく。
行政では、個性は価値がないと言われ、
ビジョンなんて必要ない、とも言われた。
我慢の限界。
自由に自分の裁量でやるんだ!
私は独立することにした!

飛び出して知った、 夢のない経営者の苦しみ

行政支援で760件の案件に関与した。
うまくいかない社長は夢の設定がうまくできてない。
そうこうするうちに、ビジョンを思い描くこともできなくなってしまう。
行政支援の限界だ。
ひとの感情は、正しさだけでは動かない。
想いを前に向けることの大切さを実感したが、そもそもどうして良いかわからなかった。

誕生のきっかけ

コンサルタント仲間と付き合うようになって気付いた。 彼らもまた、個性を発揮できずに悩んでいた。
そういうコンサルタントに共通して、ビジョンが不明確 だった。
自分でははっきりしているようでも、実はぼんやりしていて、明確にイメージができていない。
試しにビジョンをイラストで描いてみた。
思考がクリアになった、自分がやりたいことが明確になったと好評だった。
そして、本当にビジョンを実現する人が出た!
これは効果が大きい、と確信した。

ビジョンマップの効果

・こんな会社にコンサルに行きたい、と願う先生が、 2年後にはその会社の社外取締役になった!
・お客さんとこんな光景を観たい!と願った税理士。 そのお客さんの共感を得つつ、大型の案件受注になった!
・勉強会でトップを取りたいと願うコンサルタント、 イラスト化で見事、受注額トップ表彰受けた!

今後はこうしたい

夢は誰のものでも尊い。
ビジョンはひとのモティベーションを維持してくれるエンジンでもある。
私は、ひとの未来の夢をイラストで引き出し、 見える化することで光を照らしてあげたい。
ビジョンの実現に向かって、仕事も遊びも真剣にやるオトナが増えることで 世の中は確実によくなっていくはず。
だれもが夢を抱いて、ワクワクしながらビジョンを実現させていってほしい。
社長も部長も、社員もパートさんも。
だれもが夢を語り合える世の中になることを願っている。

恥ずかしい過去を公開します!

ハズカシイ過去です。(笑)
1970年、愛媛県西条市生まれ。現在も西条市に在住。
平成元年に愛媛県立西条高校を卒業し、上京立川美術学院で浪人したのちに武蔵野美大短期学部でデザインを学んだのちに大阪で就職。
デザインのプロダクションで働きました。大手広告代理店の仕事で鍛えられた当時の先輩はいまも広告業界で大活躍されています。
大阪時代に先輩上司Nさんから借りた沢木耕太郎の「深夜特急」に感銘を受け、すぐに会社を辞めて長野県で住み込みで働きました。
長野県では旅館の中居さんや八ヶ岳で農業をしてお金を貯めました。山奥ではお金を使う場所が無いので結果的にすぐに貯まりました。
その後はバックパッキングに目覚め…仕事はいろいろ放浪しながら…住む場所も変えて転々としました。
青春を追い求める若者の合い言葉は「豊かな青春、惨めな老後」!自虐的なギャグですね~笑

そのまま当然のように無職になり、最終的には愛媛県松前町にある月4000円の家賃の鍵のかからないバラックに住みました。

毎日小麦粉を練っては焼いて食べる生活でした。小麦粉は安くてお腹が大きくなるので重宝しました。

隣に住んでいた方はそんな私を「クレープ焼きの兄ちゃん」と呼んで、よく食事をごちそうしてくれました。(ありがとうございま~す!)

そのまましばらくは壊れかけた軽四の箱バンで寝泊まりしながらフラフラしてました。あの頃はまだガソリンが90円くらいでしたから助かりました。

この頃に警察署の刑事さんから職務質問を受けました。私はやつれたコートを着て海岸でガラスや貝殻を拾ってたんですが、

なにか特別な“モノ”を拾ってると思ったのだと思います。

「今日はなんの取引だ!」と三人の刑事さんに囲まれたのはちょっと怖かったです。

マンションからの飛び降り自殺もかんがえちゃいました。

ある冬にふと、松山市の石手川の近くにある10階建てマンションの屋上を目指しました。思い立ってしまったんですかね。

屋上へのドアは鍵がかかってましたから、仕方なく踊り場から手すりを乗り越えました。

手すりにぶら下がるところまでやったのですが、そこからどうしても手を離せませんでした。

そのときに下からビル風がブワッ!と吹いて、体が浮いたみたいになった気がしたときに「あぶねっ!!」って思ったんです。

ああ、まだ生きれるかも?そう思って、必死で踊り場に戻りました。

そんなダメダメ人生を歩んでいた私も、人のご縁に助けられて新居浜でアルバイトの仕事をいただきました。

松前から新居浜まで車で行って、公園の駐車場に車をとめて寝泊まりしました。

冬にあまりにも寒かったので、ごみステーションで拾った石油ストーブ(アラジン製!)を車内で焚いてウトウトしてしまいました。

ふと気がつくと手足に力がはいりません。あれ、死ぬのかな?、この死に方って意外と楽かも?、と思いましたが、

バイトの仕事が残っているのが気になって、動かない手を必死で動かして消火ボタンを押し、スライドドアを開けました。

今考えるとあれは危険でしたが、仕掛かりの仕事のために生きようとする自分に驚きました。責任って大事ですね~

やがてアルバイトから契約スタッフになり、仕事も安定してからは結婚もしました。

妻が子供を欲しがったのですがお金が無い私には無理だと思っていました。

あるとき、取引先のK所長さんがこんなことを言ってくれました。

「オマエにカネが無いのと子供を産んで育てることには何の関係もないんだぞ!」その言葉に背中を押されました。

口は悪い所長さんでしたが、面倒見のいい、人間味のある方でした。感謝です!

その後はアルバイト先の取引先企業さんに転職し、期間社員を経て正社員になりました。

やがて払えなかった保険料や年金もさかのぼって払い、なんとか人並みの生活がなんとか送れるようになりました。

正社員になった私の仕事は、営業担当者が持ち帰ったクライアントさんの案件をデザインすることでした。

いいデザインができあがった時は嬉しいですし、担当者からも好評であれば励みになりました。

もちろん社内の軋轢やパワーハラスメントのようなものもありますが、それでも「ああ、この仕事やっててよかったな」と思える瞬間もありましたから、

なんとかやっていけたんですね~。

しかし、やがてある程度仕事がこなせるようになると、仕事内容にたいしての疑問がふくれあがっていきました。

それは、「だれのためにデザインしているのか?」です。

デザイナーが営業マンに指示されるのは、「なんかええもん作っといて。」なんです。

「お客さんが何案か見たいいうてるから、適当に3案か4案つくっといて。」なんて指示がほとんどです。

で、しばらく音沙汰ないから「あれどうなりました?」って聞くと、「ああ、あれね、アカンかったわ。」で終わりです。

それも面倒くさそうに言うわけですよ。

「一生懸命に残業して作ったのに、それはないんじゃないですか?」と反論したんですが、「誰が仕事取ってきてやっとんじゃ!」で一蹴。

デザイン何案もつくらせといて、それはあんまりだ!と、当時の仲間と憤ることはしばしばでした。

営業車の窓からだらしなくタバコを挟んだ腕を出して、

「あのクソ客はヨォ、バカヤロウが!」なんて言ってる営業マンの姿を見ると、仕事を割り振られるのが情けなくなってきました。

“これじゃあダメだ。こんなやりかたじゃ誰の為にもならない!もっとお客さんの方を向いてデザインしなきゃ…”

そんな欲求がどんどん私の中で膨れていきました。

そして2005年、母が一時的に体調を崩したこともあって、会社を辞めて西条でデザイン業を始めました。

独立当初は意気揚々と看板を掲げました。

名前は何日も悩んだあげく、仕事はワクワク楽しく!!という希望と、アイデアが湧き出る様子を思い浮かべて“ワクタル”と決めました。

よ~し、バンバンやるぞ~!!と鼻息荒くしていたのですが、蓋をあけてみると、仕事が無いんです! エーッ! まったく無い!!

よく考えてみたら、コネクションもお金も情報も無い。おまけにノウハウも無い。あるのは机と携帯電話、おんぼろのiMac が一台だけ。

で、どうやって仕事をとるの?

当時、下の息子が生まれたばかりの私は、赤ん坊の泣き声を聞きながら、「これ、やってしまったかも…」と額にいや~な汗をかきました。

異業種交流会で知り合った経営者さんのところに売り込みに行ったらボロカスにコキ卸されました。(因みにこの経営者さんは現在消息不明だそうです)

仕方がないので、午前中は営業、午後はアルバイト、夜は勉強と育児という生活をしばらく続けました。

それでも仕事はまったく増えず、夜中に妻と子どもの寝顔を見て、“情けない父ちゃんでごめん…”とひっそり泣いてしまいました。

この頃にアルバイトでお世話になっていた自転車店での経験は、いまの私の重要な基礎になっています。

店内の陳列やライティング、そしてPOP書きをしこたまさせてもらいました。ある程度好き勝手させてくれたんですね~!

そこでは多くの発見がありました。POPを書いたら売れたり、販売位置を変えたり別のジャンルで提案したりすると 急に売れることがありました。

また、配達のときにひとことお客さんに声がけしたり、コンチワ~!って笑顔で接していたりしていると、お客さんが喜んでお金を払ってくれたりするんです。レジも打ちましたが、支払いのお客さんが来ることがわかっている時には店のBGMを変えたりすると、ノリノリで支払ってくれたりもしました。

ほかにもニュースレターを書いたりといろいろやりましたが、それを許してくれた店長さんには感謝です!

(ニュースレターのタイトル文字は、2013年のいまでも使ってくれています!ウレシイ~!)

ここで大きな発見をしたのですが、それは【視点の切り替え】です。

売り手目線を、買い手目線に切り替えてみると、いろんなことが見えることに気がつきました。

また、それまではデザイナーという裏方の存在だった私が、店員として売場に立ち、店員に“なりきる”ことで、

お客さんとの接し方次第でこんなにも喜んでもらえるのか!ということにも気がつきました。いまでいうマーケットインの原点みたいなものでしょうか。

デザインをマーケティングに照らし合わせて考える私のスタイルはこの頃にはじまっています。

そうこうしているうちにやっと、私に名刺のデザインを頼みたいという業者さんが現れました。

その方はずいぶん前にお世話になった印刷屋さんでした。はじめての仕事はタテ型名刺のデザインで、デザイン料は1,000円でした。

「先に払っとくわ」といって財布からシワの入った1,000円をくれましたが、業者さんが帰ってからその1,000円を手に握りしめて泣きました。

私の目からこぼれた涙が、1000円札にポタリポタリと落ちました。その音はいまでも私の耳に残っています。

涙のワケは、ありがたさと、そして…悔しさでした。

それからはすこしづつ仕事をいただけるようになりました。

お客さんがお客さんを紹介してくださったりして仕事も少しは増え、なんとかアルバイトをしなくてもいいようになりました。

反対に、お客さんの身になって考えていないテキトーな業者さんからの依頼は全てお断りしました。

そのぶん売上げは厳しくなりましたが、人をだますようなデザインはしたくない、という信条を守りたかったんですネ。

経営の経験の無い私でしたので、ずいぶん裏切られたり、いいように利用されたりもしました。

相手に悪気がなかったとしても、こちらが無知ですから、結果的にそうなっちゃうんですかね。

お金にならない仕事をする結果になったり、お金を払ってもらえないこともありました。

そんなときに、家に帰って子どもの無垢な寝顔を見ると、また情けなくて悔しくて辛くなりました。

(よのなかのおとーさん、経験あるでしょ?!)

その後もまーいろいろありまして(笑)次第にお客様の信頼をいただきつつ、なんとか現在に至っています。

「ワクタルさんと仕事をすると楽しいですね」と言っていただけるのは本当にうれしいですネ!!

こんな私をあたたかく見守ってくださったお客様には本当に感謝しています。お客さんに仕事をいただきながら育てられた、そんな感覚です。

未来をワクワク、楽しく。そして美しく。

その後は、お客さんの立場に立って必要なことを精一杯させていただいています。

わずかづつではありますが順調に売上げを伸ばすことができましたので、地域のこどもたちに絵本の読み聞かせをする余裕もできました。

(2013年に卒業しました。)

また、公共機関さんや金融機関さんと一緒に、コンサルティング業務に関わらせていただくようになりました。

こんなダメダメな過去の私を信頼してくださっていることに心から感謝しつつ、真剣にお手伝いをさせていただいております。

ワクタルはこれからも感性を豊かにして、仕事をワクワク楽しくしながらお客さまと一緒に歩んでいきます。

今後ともどうかワクタルをよろしくお願いいたします!

(*長文、読んでくださってありがとうございました! 改めて読み返すとハズカシイですね…汗)